2017年4月28日金曜日

源氏物語:紫の上の愛した桜



仏隆寺のエドヒガン桜、千年桜とも(2017.4.23撮影)
  紫の上は、その容姿を桜に擬せられただけではなく、自身も、桜を殊の外好みました。
 中でも最も好んだのが、他の桜が終わった後に咲く、遅咲きのヤマザクラだったのではないかと私は思っています。
 当時は、今のソメイヨシノは存在しなかったので、様々なヤマザクラが、京を彩っていたことと思われます。ヤマザクラは、花の種類が非常に多く、また開花時期も様々です。
 
 紫の上から「私が亡くなった後、この桜を愛してね」と言われていた孫の匂宮。紫の上が亡くなった翌年の春、咲いたその桜を見て、源氏に向かって、「何とかしてこの桜が散らないようにしたい」と言います。

(匂宮)「まろが桜は咲きにけり。いかで久しく散らさじ。木のめぐりに張を立て、帷を上げずは、風もえ吹き寄らじ」と、かしこく思ひ得たり、と思ひてのたまふ顔のいとうつくしきのも、(源氏は)うち笑まれたまひぬ。(幻の巻)


 春の景色も涙に霞む嘆きの日々を送る源氏には、紫の上が可愛がって育てていた、この匂宮だけが、心の慰めでした。
 紫の上が大切にしていて、匂宮に託した「まろが桜」はこの仏隆寺の桜のような樹だったのではないでしょうか。
 
 そして、一方、紫の上の容姿に擬せられたのは、紅の若葉が照り映えるすらりと伸びたヤマザクラだったと思われます。屏風岩のヤマザクラはまさに紫の上の匂い立つような華やかな姿にぴったりだと思います。
屏風岩のヤマザクラ(2017.4.23撮影)
  


 紫の上は、庭に様々な種類の桜を植えて、春の間中、次々に咲く桜を愛でたとあります。他の庭では桜が散り果てた後も、紫の上の庭にだけは、まだ桜が咲き誇っていたとあります。私も四月下旬まで、今年の桜を楽しみました。


屏風岩のヤマザクラ(2017.4.23撮影)





2017年4月21日金曜日

春たけなわ

神泉苑 龍頭の船
春たけなわのころ、光源氏は龍頭鷁首の船を新たに作って 池に浮かべ、船楽を催した。

 

 龍頭鷁首を、唐のよそひにことことしうしつらひて、梶取の棹さす童べ、皆みづら結ひて、唐土だたせて、さる大きなる池の中にさし出でたれば、・・(略)・・こなたかなた霞みあひたる梢ども、錦を引きわたせるに、御前のかたははるばると見やられて、色をましたる柳、枝を垂れたる、花もえもいはぬにほひを散らしたり。ほかには盛りすぎたる桜も、今盛りにほほゑみ、廊をめぐれる藤の色もこまやかに開けゆきにけり。まして池の水に影をうつしたる山吹、岸よりこぼれていみじき盛りなり。(胡蝶の巻)


 唐土風に飾り立てた船が、芽吹く樹々が風景を霞ませるなかを漕いでゆく。船を漕ぐ童までも、中国風の装いをしている。岸辺は柳や桜、藤や山吹に彩られ・・・。夢のような光景を光源氏と紫の上は並んで見ている。船では音楽が奏でられ、乗り込んだ若い女房たちが美しく装ってうっとりと池から見る景色に酔いしれている。
 紫の上が一番幸せだった時期。
 柳の緑が濃くなり、青紅葉が美しいこの時期になると、私は、いつもこの場面を思い浮かべる。



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2017年4月16日日曜日

幾千本のさくら散る散る・・・

山桜もソメイヨシノも一気に咲いたこの春。霞か雲かと目を疑うような桜色に世の中が染まった。そして、今、降りしきる花びら。源氏物語の中で、「散る桜」と言えばこの場面。

(夕霧の)ものきよげなるうちとけ姿に花の雪のやうに降りかかれば、うち見上げて、しをれたる枝すこし押し折りて、御階の中のしなのほどにゐたまひぬ。督の君(柏木)続きて、「花、乱りがはしく散るめりや。桜は避きてこそ」などのたまひつつ、宮(女三宮)の御前のかたを後目に見れば、例のことにをさまらぬけはひどもして、色々こぼれ出でたる御簾のつま、透影など、春の手向けの幣袋にやとおぼゆ。(若菜上の巻)


 寝殿の階段に座る夕霧と柏木の上に降りしきる桜の花。

 源氏の邸宅の庭に若い貴公子たちが集まって蹴鞠をした折のことです。競技に疲れた二人は、一休みしようと、きざはしに腰かけたのです。たまたまその時に女三宮の部屋から猫が走り出て御簾がもちあがるという事件が起こりました。そして、柏木は、桜吹雪のむこうに女三宮の姿を見てしまうのです。この垣間見が柏木の運命を狂わせました。乱れ散る桜は狂気をはらんでいるようにも思えます。

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2017年4月7日金曜日

みやこぞ春の

見わたせば柳桜をこきまぜて
        みやこぞ春の錦なりける


 古今集の1,100首あまりの歌は春の部から始まります。その中でも一番多いのが、もちろん桜を詠んだもの。
素性法師のこの歌のように満開の桜を詠んだものもありますが、多くは散る桜を惜しむ歌です。

 桜ほど命の短い花はありません。今年の桜もあっという間に満開の時を迎えました。
 いつ散るかいつ散るかとはらはらするのは王朝人も私たちも同じです。

春雨の降るは涙か桜花
       散るを惜しまぬ人しなければ(大伴黒主)


 桜に雨はつきもの。散るのを惜しむ人々の涙が雨になって降ってくるのかと黒主は言っています。まさに今日はしとしと春雨が降っているのです。まだ散りはしないでしょうが。

桜花散るぬる風のなごりには
       水なき空に波ぞ立ちける(紀貫之)


 空一面を覆うかのように、風に舞い散った花弁。今は、、もう花びらは散り果ててしまったけれど、空を見上げれば舞う花びらの残像がまぶたに残る・・・・・花の散った後の青空を見上げると、確かに空高く花びらが舞っていると感じませんか。

春ごとに花のさかりはありなめど
       あひ見むことはいのちなりけり(よみ人しらず)


毎年春は巡り来て、桜は必ず咲きます。けれども、それに会うことができるのは、平穏に生きていればこそ。今年の桜には会えなかった友もいます。今年も会えた・・・そう思ってじっと桜を見つめると涙がじわりと湧いてきます。

やどりして春の山辺に寝たる夜は
      夢のうちにも花ぞ散りける(紀貫之)


さあ、きょうは今から自転車で桜を見て回ろう!

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