2018年4月29日日曜日

紫の上の庭のつつじ



この春は、例年より早くつつじが最盛期を迎えました。
つつじも色々種類がありますが、今、あちこちで見かける艶やかな大輪のつつじは、いつ頃からのものなのでしょうか。


源氏物語に、つつじを探してみたのですが、ただ一度、「岩躑躅」として登場しているだけでした。

南の東は、山高く、春の花の木、数を尽くして植ゑ、池のさまおもしろくすぐれて、御前近き前栽、五葉、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅などやうの、春のもてあそびをわざとは植ゑて、秋の前栽をば、むらむらほのかにまぜたり。(少女の巻) 

ミツバツツジ

光源氏が新たに造営した六条院の春の庭、紫の上と光源氏の住む区画の庭の様子です。

「岩つつじ」を調べてみると、ミツバツツジのことを指すという説もありますが、現在は「夏に丸い葉の下に小さい釣り鐘型の花を付ける山野草」とされているようです。

紫の上の春の庭の「岩躑躅」は「春の花の木」とありますし、その華やかさから言っても地味な山野草ではなく、ミツバツツジのように思われます。ミツバツツジは桜の終わった頃に山肌を華やかに飾る花ですから。

 若いころ、ツツジは、何となく派手過ぎて、好きではなかったのですが、この頃では、そのパアッと明るい咲き方に魅力を感じるようになりました。





2018年4月25日水曜日

藤の花の宴




花の宴の巻はまさにその巻名の通り、花の宴で始まり花の宴で終わります。
始めの宴は、如月の二十日あまり(今の暦では三月末か四月の始めごろ)に催された帝主催の桜の宴。

もう一つは、弥生の二十余日に右大臣家で催された藤の宴です。いずれも光源氏は参加していて、朧月夜の君との縁につながる宴でした。

始めの花の宴(桜)では、朧月夜と偶然出会い、相手が誰かわからぬままに一夜を共にし、二度目の花の宴(藤)ではその素性を知って歌を交わします。
そして、朧月夜と別れて、二十年後に再会した時も、藤の花揺れる右大臣家でした。

王朝の貴族たちは、まずは桜を愛で、それが散り去った後は藤の花房を愛で、いずれも舞楽や酒肴を優雅に楽しんだのです。桜以上に藤の花を好んだのではないかとまで思われます。



源氏物語でそういった宴の描写が詳しいのが、宿木の巻の藤の宴の場面です。帝が主催して後宮の藤壺で行われたものです。

この時、藤壺には、もとの主の女御の一人娘、女二宮が住んでいました。帝はその女二宮を鍾愛し、薫を婿として選び、女二宮が薫の邸に移る前日に催された盛大な宴でした。

明日とての日、藤壺に上わたらせたまひて、藤の花の宴せさせたまふ。南の廂の御簾あげて倚子立てたり。公わざにて、主人の宮のつかうまつりたまふにはあらず。上達部、殿上人の饗など、内蔵寮よりつかうまつれり。(略)南の庭の藤の花のもとに、殿上人の座はしたり。後涼殿の東に楽所の人々召して、暮れ行くほどに、双調に吹きて、上の御遊びに、宮の御方より、御琴ども笛など出ださせたまへば、大臣をはじめたてまつりて、御前に取りつつ参りたまふ。(宿木の巻)


この後、夕霧が光源氏の書き残した譜面による琴の演奏をし、薫が柏木の遺品の笛を吹きたて、匂宮は琵琶を弾き、大変な音楽会になるのでした。

そしてすっかり暗くなって、酒と肴が供されます。

宮の御方より、粉熟参らせたまへり。沈の折敷四つ、紫檀の高坏、藤の村濃の打敷に、折枝縫ひたり。銀の様器、瑠璃の御盃、瓶子は紺瑠璃なり。 


なんと豪華絢爛な道具立て・・・・溜息が出ます。

敷いてある布には藤の折枝が刺繍してあるというのですから、芸がこまかいですね。









2018年4月16日月曜日

筍をかじる薫




朱雀院は、その幸福を願って、最愛の娘を、光源氏に託したのですが、源氏は女三宮をさほど愛してはくれませんでした。

更には、女三宮自身が、柏木青年との密通事件を起こしたこともあって、彼女は出家を決意、父朱雀院は涙ながらにそれを認めたのでした。

出家した女三宮の元に、父朱雀院から、心尽くしの山芋と筍が届きました。



その筍を見つけて、薫(女三宮の密通事件の結果生まれた)が、寄ってきます。源氏にとっては名目上の孫です。

(薫は)わづかにあゆみなどしたまふほどなり。この筍の罍子に、何とも知らず立ち寄りて、いとあわたたしう取り散らかして、食ひかなぐりなどしたまへば、(源氏)「あならうがはしや。いと不便なり。かれ取り隠せ。食物に目とどめたまふと、もの言ひさがなき女房もこそ言ひなせ」とて笑ひたまふ。 

朱雀院から届いた筍は茹でたものだったのでしょうか


源氏は自分の子ではないと知りつつも、この幼子に愛情を抱いており、ここでも、抱き上げて話しかけています。
筍を隠せと言いましたが、薫は筍を握ったまま抱かれています。

御歯の生ひ出づるに食ひあてむとて、筍をつと握り持ちて、雫もよよと食ひ濡らしたまへば、「いとねぢけたる色好みかな」とて 憂き節も忘れずながら くれ竹のこは捨てがたきものにぞありける と、ゐて放ちてのたまひかくれど、うち笑ひて、何とも思ひたらず、いとそそかしう、這ひおり騒ぎたまふ。(横笛の巻) 



王朝時代の人々にとって、春の筍や蕨は貴重な食べ物だったのではないでしょうか。

蕨は宇治十帖の中で、二度、山の阿闍梨から、山荘にすむ姫君に送られたことが書かれています。








2018年4月10日火曜日

山吹の人  玉鬘

王朝時代の山吹は一重かなと思うのですが、八重山吹と出てきます


源氏物語の女性たちの多くは、色々な花や木によそえられています。
山吹という明るく華やかな花によそえられているのは玉鬘という女性です。
女君たちに衣裳を贈る時にも、源氏は玉鬘には「山吹の花の細長」(表は赤みがかった黄色、裏は明るい黄色の着物)を選んだとあり、それを見た紫の上はどれほど華やかな方だろうと想像しています。
源氏の六条院に引き取られて、源氏の庇護を受けていた玉鬘は、思いがけなく、髭黒という野暮な男に奪い去られます。
彼女が居なくなった後、源氏は山吹の花を見て、玉鬘を恋い、独り言を言っています。

八重の方が普通だったのかもしれません

三月になりて、六条殿の御前の、藤、山吹のおもしろき夕ばえを見たまふにつけても、まづ見るかひありてゐたまへりし(玉鬘の)御さまのみおぼし出でらるれば、春の御前をうち捨てて、こなたにわたりて御覧ず。呉竹の籬に、(山吹が)わざとなう咲きかかりたるにほひ、いとおもしろし。「色に衣を」などのたまひて、


「思はずに井手の中道隔つとも 言はでぞ恋ふる山吹の花顔に見えつつ」



などのたまふも、聞く人なし。(真木柱の巻)


玉鬘という人は、九州の片田舎育ちですが、乳母の教育が良かったのか、京に連れて来られても、見劣りしない娘でした。
「わららかににぎははしく」ふるまう方とあります。つまり、いつも明るく陽気な人だったようです。山吹の花にぴったりのイメージです。







2018年4月3日火曜日

源氏物語の春のうらら



春のうららと聞けば、どなたも、あの滝廉太郎作曲の唱歌「花」を思い出されると思います。この季節になると思わず口ずさみたくなる歌。
♪はるのうら~ら~のす~み~だ~川♪
この歌詞と同じ歌に源氏物語で出会った時は驚きました。六条院の春の庭で船楽が催された時のことです。船に乗った女房たちが美しい春の眺めにうっとりして次々に詠んだ歌の一つが・・・・・・
 

風吹けば波の花さへ色見えてこや名に立てる山吹の崎   

春の池や井手の川瀬にかよふらむ岸の山吹そこもにほへり 


 亀の上の山もたづねじ船のうちに老いせぬ名をばここに残さむ


春の日のうららにさしてゆく船は棹のしづくも花ぞ散りける

などやうのはかなきことどもを、心々に言ひかはしつつ、行く方も帰らむ里も忘れぬべう、若き人々の心をうつすに、ことわりなる水の面になむ。 (胡蝶の巻)



♪櫂の雫も花と散る♪と全く同じ。棹が櫂になっただけではありませんか!
寝殿造りの庭園の池に浮かぶ龍頭鷁首の船と、墨田川を行き交う船とではかなり趣が違いますが・・・・・。