始めの宴は、如月の二十日あまり(今の暦では三月末か四月の始めごろ)に催された帝主催の桜の宴。
もう一つは、弥生の二十余日に右大臣家で催された藤の宴です。いずれも光源氏は参加していて、朧月夜の君との縁につながる宴でした。
始めの花の宴(桜)では、朧月夜と偶然出会い、相手が誰かわからぬままに一夜を共にし、二度目の花の宴(藤)ではその素性を知って歌を交わします。
そして、朧月夜と別れて、二十年後に再会した時も、藤の花揺れる右大臣家でした。
王朝の貴族たちは、まずは桜を愛で、それが散り去った後は藤の花房を愛で、いずれも舞楽や酒肴を優雅に楽しんだのです。桜以上に藤の花を好んだのではないかとまで思われます。
この時、藤壺には、もとの主の女御の一人娘、女二宮が住んでいました。帝はその女二宮を鍾愛し、薫を婿として選び、女二宮が薫の邸に移る前日に催された盛大な宴でした。
明日とての日、藤壺に上わたらせたまひて、藤の花の宴せさせたまふ。南の廂の御簾あげて倚子立てたり。公わざにて、主人の宮のつかうまつりたまふにはあらず。上達部、殿上人の饗など、内蔵寮よりつかうまつれり。(略)南の庭の藤の花のもとに、殿上人の座はしたり。後涼殿の東に楽所の人々召して、暮れ行くほどに、双調に吹きて、上の御遊びに、宮の御方より、御琴ども笛など出ださせたまへば、大臣をはじめたてまつりて、御前に取りつつ参りたまふ。(宿木の巻)
この後、夕霧が光源氏の書き残した譜面による琴の演奏をし、薫が柏木の遺品の笛を吹きたて、匂宮は琵琶を弾き、大変な音楽会になるのでした。
そしてすっかり暗くなって、酒と肴が供されます。
宮の御方より、粉熟参らせたまへり。沈の折敷四つ、紫檀の高坏、藤の村濃の打敷に、折枝縫ひたり。銀の様器、瑠璃の御盃、瓶子は紺瑠璃なり。
なんと豪華絢爛な道具立て・・・・溜息が出ます。
敷いてある布には藤の折枝が刺繍してあるというのですから、芸がこまかいですね。
0 件のコメント:
コメントを投稿