2017年10月29日日曜日

猫を抱く柏木


一匹の子猫が人々の人生を狂わせた、そんな猫が源氏物語に登場しています。当時、貴族の間で流行った唐猫の、子猫です。この猫が、青年柏木を死なせ、女三の宮を出家させ、光源氏には初めての敗北感を抱かせたのです。

前帝の朱雀院の愛娘女三の宮は14歳。柏木はじめ若い貴公子たちの憧れの的でしたが、色々な事情から、彼女は、結局、源氏のものとなったのでした。
光源氏はすでに40歳になっていました。

ある春の日、源氏の邸宅では若い貴公子たちが集まって蹴鞠を楽しんでいました。
その折に、柏木は、女三の宮の姿を見てしまうのです。


唐猫のいと小さくをかしげなるを、すこし大きなる猫追ひ続きて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、(略)御簾のそばいとあらはに引きあけられたるを、とみにひき直す人もなし。(略)几帳の際すこし入りたるほどに、袿姿にて立ちたまへる人あり。階より西の二の間の東のそばなれば、まぎれどころもなくあらはに見入れらる。紅梅にやあらむ、濃き薄き、すぎすぎに、あまたかさなりたるけぢめはなやかに、草子のつまのやうに見えて、桜の織物の細長なるべし。御髪の末までけざやかに見ゆるは、糸をよりかけたるやうになびきて、末のふさやかにそがれたる、いとうつくしげにて、七八寸ばかりぞあまりたまへる。御衣の裾がちに、いと細くささやかにて、姿つき、髪のかかりためへる側目、言ひ知らずあてにらうたげなり。(若菜下の巻)


子猫が、つながれていた綱で御簾をたくしあげてしまったため、ちょうど柏木のいた位置から、女三の宮の愛くるしい姿が、丸見えになってしまったのでした。

この日から、柏木は寝ても覚めても宮のことが頭から離れません。宮はすでに、光源氏のもの。せめてあの子猫をと、あちこち手をまわして、柏木は、女三宮の所にいた子猫を手に入れました。

つひにこれを尋ね取りて、夜もあたり近く臥せたまふ。明け立てば、猫のかしづきをして、撫で養ひたまふ。ひと気遠かりし心もいとよく馴れて、ともすれば衣の裾にまつはれ、寄り臥しむつるを、まめやかにうつくしと思ふ。いといたくながめて、端近く寄り臥したまへるに、来てねうねう、といとらうたげに鳴けば、かき撫でて、うたてもすすむかなと、ほほゑまる。
「恋ひわぶる人のかたみと手ならせば なれよ何とて鳴く音なるらむ
これも昔の契りにや」と、顔を見つつのたまへば、いよいよらうたげに鳴くを、懐に入れてながめゐたまへり。(若菜下の巻)


猫で満足していれば良かったのですが、この後も、柏木はどうしても女三宮への執着から逃れることができず、なんと6年後に、源氏の留守中に宮の元にしのびこんで、思いをとげたのでした。宮を抱いて瞬時まどろんだ時、柏木はその猫の夢を見ます。

猫の夢は懐妊を告げると言われていました。
そして、実際、宮は柏木の子を宿したのでした。
その秘密は、やがて、光源氏の知るところとなりました。源氏の一睨みで寝付いた柏木はそのまま死ぬしかなく、宮も出家の道を選びました。
わが子ならぬわが子を抱く源氏の心は複雑でした。
写真の猫は以前うちにいたアビシニアン種のオムです






2017年10月24日火曜日

浮舟の再生

薫という男の世話になりながら、匂宮という新しい愛人に身も心も奪われ、そんな自分が許せなくて、悩み苦しんだ挙句、宇治川に身を投げようとした浮舟。荒れ騒ぐ川浪の音を聞いて彷よううちに、物の怪が取り憑いて、彼女は、意識を失ったまま、ずぶ濡れの状態で、ある邸の裏庭に捨てられたのです。

こんな木の根っこに浮舟はたおれていたのでしょうか

まづ僧都わたりたまふ。いといたく荒れて、恐ろしげなるところかな、と見たまひて、「大徳たち、経読め」などのたまふ。(略)火ともさせて、人も寄らぬうしろの方に行きたり。森かと見ゆる木の下を、うとましげのわたりや、と見入れたるに、白きもののひろごりたるぞ見ゆる。「かれは何ぞ」と、立ちとまりて、火を明るくなして見れば、もののゐたる姿なり。「狐の変化したる、憎し、見あらはさむ」とて、一人は今すこし歩み寄る。今一人は「あな用な。よからぬものならむ」と言ひて、さやうのもの退くべき印をつくりつつ、さすがになほまもる。頭の髪あらば太りぬべきここちするに、この火ともしたる大徳、憚りもなく、奥なきさまにて、近く寄りてそのさまを見れば、髪は長くつやつやとして、大きなる木の根のいと荒々しきに寄りゐて、いみじく泣く。(手習の巻)


人々は、あやしいものだから、捨て置けというのですが、僧都は「これは人である、この雨の中に置いておけば死んでしまう。そのようなことは仏の道に背くことだ」と皆を説得して彼女を助けたのです。亡くなった娘の生まれ変わりと世話した尼の手厚い介抱と、僧都の加持によって、浮舟は、二か月後に意識を取り戻したのでした。
しかし、再生した浮舟は自分の記憶が戻ったあとも、一切自らについて語りません。

一旦自分は死んだと思っていた彼女は、自らの過去を全て忘れようとし、美しく若い身空で、出家を決意していたのでした。
源氏物語で最後に登場する女君浮舟に、紫式部はどのような思いを託したのでしょうか。
源氏物語の中では、この場面の季節は春なのですが、私は、どうしても、冷たい秋の雨の降る日としてこの場面を思い浮かべてしまいます。



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2017年10月14日土曜日

紫苑揺れる秋の庭

紫苑の花も、藤袴や女郎花と同じように、すらりと伸びた茎の上に、まとめて花を着けます。そして、花の蕾の時期から色あせてゆくまでの期間がとても長い点もこれらの花に共通しています。源氏物語の中では、「紫苑」という言葉は花としてよりも、秋の衣裳の色目、襲(かさね)の色目として使われている場合が多いようです。
 
源光庵にて10月7日撮影
秋好む中宮と呼ばれる方のお庭には、秋の草花が美しく咲き誇っていました。野分の翌朝の、その御殿の様子を描いた場面では、実際の花と衣裳の色目と両様の意味で紫苑が登場しています。

童女おろさせたまひて、虫の籠どもに露飼はせたまふなりけり。紫苑、撫子、濃き薄き衵(あこめ)どもに、女郎花の汗衫(かざみ)などやうの、時にあひたるさまにて、四五人連れて、ここかしこの草むらに寄りて、いろいろの籠どもを持てさまよひ、撫子などの、いとあはれげなる枝ども取り持て参る霧のまよひは、いと艶にぞ見えける。吹き来る追風は、紫苑ことごとに匂ふ空も、香のかをりも、(中宮が)触ればひたまへる御けはひにやと、いと思ひやりめでたく、心懸想せられて、立ち出でにくけれど、・・・(野分の巻)


朝ぼらけのお庭をのぞいているのは、野分の見舞に訪れた夕霧です。色とりどりの虫籠を手にした女の子たちが、それぞれに異なる秋の色目の衣裳を身に着けて、秋草の庭をさまよっています。何とも美しい光景です。ずっとのぞき見していたかったけれど、そうも行かず、この後夕霧は咳払いをして、庭に歩み入ります。

 オマケ
鷹峯源光庵では、ホトトギスの花も見頃でした。鳥のホトトギスの腹の模様と花の斑が似ていることからこの名がついたそうです。因みに源氏物語には、鳥のホトトギスしか登場しません。



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2017年10月8日日曜日

光源氏が楽しんだ鈴虫の宴

秋ごろ、西の渡殿の前、中の塀の東の際を、おしなべて野につくらせたまへり。(略)この野に虫ども放たせたまひて、風すこし涼しくなりゆく夕暮れに、わたりたまひつつ、虫の音を聞きたまふやうにて・・・・・。(鈴虫の巻)

虫の音の聞こえる草むら

女三宮の住む西の対の庭を野辺のように作らせ、そこに虫を放って鳴き声を楽しもうという趣向です。色々な虫の声が聞こえるのを聞きながら源氏は鈴虫(今の松虫のこと)の声が可愛くていいねと女三宮に語り掛けたりしています。
やがて月が出て、源氏は月明かりに琴を弾きます。

10月4日が仲秋の名月でした。今年はひときわ美しかった月。御覧になった方も多いと思います。人工の灯火のなかった時代、月の光は今より何倍も明るく輝き、人々の夜の生活に密着していたことでしょう。

王朝時代、宮中では仲秋の名月の夜は特別な宴会が開かれ、管弦の遊びを楽しむのが恒例でした。その宴が中止となったある年、光源氏の六条院に若い貴公子たちが集い、月を愛で、虫の音に耳を澄まし、管弦の遊びを楽しみました。

仲秋の名月が昇る

今宵は例の御遊びにやあらむと、おしはかりて、兵部卿の宮わたりたまへり。大将の君(夕霧)、殿上人のさるべきなど具して参りたまへれば、こなたにおはしますと、御琴の音を尋ねてやがて参りたまふ。(略)内裏の御前に、今宵は月の宴あるべかりつるを、とまりてさうざうしかりつるに、この院に人々参りたまふと聞き伝へて、これかれ上達部なども参りたまへり。虫の音の定めをしたまふ。(略)「今宵は鈴虫の宴にて明かしてむ」と(源氏は)おぼしのたまふ。(鈴虫の巻)


この後、一行は笛を吹いたりしながら、車を連ねて冷泉院へ行き、宴を続けます。虫の音色の良し悪しを聞き比べたり、月の光のもとで管弦を楽しんだり、なんと優雅な暮らしでしょう。(もっとも、貴族だけでしょうが)
草むらの蛍袋の花

現代人の生活の味気無さを思い知らされます。日本古来の虫が少なくなって、草むらではなく、樹上で鳴く外来種の情緒のない鳴き声ばかり聞こえる秋の夜。さびしいですね。


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