2017年6月26日月曜日

源氏物語に降る五月雨

 梅雨入りしたとは名ばかりで、青空が続く今年の六月。最近は春と秋も様相が変わりました。王朝時代、季節はもっと自然、に暦通りに移っていたように思われます。
2017.6.25.長建寺の雨
 陰暦の五月は、現代の暦で言えば六月半ばから七月にかけての今頃。五月雨がしとしと降り続く日々が続いたようです。梅雨という言葉は源氏物語にはなく、「長雨」「五月雨」と表現されています。この時期は、つれづれに任せて、男たちは女談義に花を咲かせたり、女たちは絵物語を広げたりして過したようです。

源氏が玉鬘を相手に物語論を展開したのもそういう五月雨の日でした。

 長雨例の年よりもいたくして、晴るる方なくつれづれなれば、御方々、絵物語などのすさびにて、明かし暮らしたまふ。(略)殿(源氏)も、こなたかなたにかかるものども散りつつ、御目に離れねば、「あなむつかし。女こそものうるさがらず、人にあざむかれむと生まれたるものなれ。ここらの中に、まことはいと少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心をうつし、はかられたまひて、暑かはしき五月雨の、髪の乱るるも知らで、書きたまふよ」(蛍の巻)

2017.6.25雨の鴨川

 源氏は、ここで、嘘ばかり書かれているのが物語と言っていますが、この後、玉鬘が反論すると、論調を変えて「日本紀などはただかたそばぞかし。これらにこそ道々しくくはしきことはあらめ」と物語が歴史の真実を語っていると言っています。
  ご存じのように、紫式部の文学観を示すものとして有名な言葉です。
 五月雨のつれづれはまた様々な懐古の思いに駆られる時でもあったようです。

葛の葉に雨露の玉

 源氏が紫の上亡きあとの寂しさを息子夕霧に漏らしたのも五月雨の夜でした。

  五月雨は、いとどながめくらしたまふよりほかのことなく、さうざうしきに、十余日の月はなやかにさし出でたる雲間のめづらしきに、大将(夕霧)の君御前にさぶらひたまふ。花橘の、月影にいときはやかに見ゆる薫りも、追風なつかしければ、千代をならせる声もせなむ、と待たるるほどに、にはかに立ち出づる村雲のけしき、いとあやにくにて、おどろおどろしく降り来る雨に添ひて、さと吹く風に燈籠も吹きまどはして、(略)「独住は、ことに変ることなけれど、あやしうさうざうしうこそありけれ。・・・・・」(幻の巻)

2017年6月17日土曜日

蓮の花咲く頃

勧修寺の蓮池

 夏ごろ、蓮の花の盛りに、入道の姫君(女三宮)の御持仏どもあらはしたまへる、供養ぜさせたまふ。(略)閼伽の具は、例のきはやかに小さくて、青き、白き、紫の蓮をととのえへて、荷葉の方を合はせたる名香、蜜を隠しほほろげて、焚き匂はしたる、ひとつかをりに匂ひ合ひて、いとなつかし。(鈴虫の巻)

 
 女三宮の出家をひきとめることの出来なかった源氏は、尼削ぎの髪でいっそう幼く愛らしく見える女三宮に未練があります。

「せめて盛大な仏事を」と宮の持仏の開眼供養を行いました。ちょうど庭の池には蓮の花が次々に開く頃です。仏前には青や白や紫の蓮の造花が供えられ、蓮の葉を用いて蜂蜜で練ったお香が焚かれています。

 

「かかるかたの御いとなみをも、もろともにいそがむものとは思ひ寄らざりしことなり。 よし、後の世にだに、かの花のなかのやどりに、隔てなくとを思ほせ」とてうち泣きたまひぬ。

   

     はちす葉をおなじ台と契りおきて

              露のわかるるけふぞ悲しき

と、御硯にさし濡らして、香染なる御扇に書きつけたまへり。宮、
      

     隔てなくはちすの宿を契りても             

            君が心やすまじとすらむ

と書きたまへれば、「いふかひなくも思ほしくたすかな」とうち笑ひながら、なほあはれとものを思ほしたる御けしきなり。(鈴虫の巻)



 源氏は「こんな仏事をあなたとすることになるとは思わなかった」と、女三宮に語りかけ、「せめてあの世では極楽の中の池に咲く同じ蓮の中で共に過ごしましょう」と言うのですが、宮は「共にとお約束なさっても、あなたのお心は私の所にはございませんでしょうね」とにべもない返事をするのでした。

 当時の貴族の寝殿造りの邸宅には必ず池がありましたが、光源氏の六条院にも大きな池がありました。その一角に、蓮が多く揺れていたようです。極楽浄土に咲く花として大切にされていたようです。
 
 紫の上が亡くなった翌年の夏にも、光源氏は、池の蓮を見て、かつて二人並んで見たことを思い出して悲しみに沈んだことが書かれています。


2017年6月10日土曜日

源氏物語にあやめは咲かず

花菖蒲 2017年6月9日植物園
旧暦五月五日は菖蒲の節句。王朝人は菖蒲やヨモギなどを屋根にのせたり、あるいは、それらで作った薬玉を軒につるしたり、肘に掛けて歩いたりして、厄をはらったようです。梅雨入りしたこの季節、京都でも、あちこちで花菖蒲が美しく咲きました。

 
 菖蒲(あやめ)は文目との掛詞として源氏物語の中でも多く登場しています。

一場面をご紹介しましょう。
 

 

 宮より御文あり。白き薄様にて御手はいとよしありて書きなしたまへり。
     

      今日さへや引く人もなき水隠れに
          生ふるあやめのねのみ泣かれむ
 

 例にも引き出でつべき根にむすびつけたまへれば、(源氏)「今日の御返り」などそそのかしおきて出でたまひぬ。これかれも、「なほ」と聞こゆれば、御心にもいかがおぼしけむ、
    

    「あらはれていとど浅くも見ゆるかな
          あやめもわかず泣かれけるねの
 

若々しく」とばかり、ほのかにぞあめる。(蛍の巻)


 五月五日、源氏の邸で過ごす玉鬘の元へ、求婚者の一人である蛍兵部卿の宮から届いたのは、長い菖蒲の根に結び付けた文でした。花ではないのです。
これは菖蒲ではないのです


 実はこの時代の菖蒲、あやめと言われていましたが、私たちの見るあやめや花菖蒲とは全く種類の異なるもので、美しい花をつけるものではありませんでした。葉はよく似ていますが、花はガマの穂のような、花びらのない地味なものです。
 
 今日宝ヶ池公園でその菖蒲を発見!
正しい菖蒲の花
葉は固くて鋭い

花は本当に地味で小さくて注意してみないとわからない。湿地に生えていました。
葉は刀に似ていることから武勇の象徴とされたということがよくわかりました。



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